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デンカイ 列伝 後漢の青州刺史。 【演義】 徐州の陶謙が曹操に攻められた際、孔融や劉備と共に陶謙の要請に応じて徐州に向かった。 【正史】 公孫瓚から青州刺史に任ぜられ、劉備と共に袁紹と対抗する。袁紹が公孫瓚を攻めた際は劉備と共に斉に駐屯。袁紹派の曹操が陶謙を攻めた際は、やはり劉備と協力して陶謙を救援し、曹操の軍を退却させた。後に袁紹の長男・袁譚に撃破された。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 68 65 56 61 63 313 133 189 順位 263 316 409 336 317 243 284 261 偏差値 54.8 54.0 48.6 52.0 51.9 53.9 54.6 53.7 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C B A B C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 48 50 46 55 49 54 67 61 52 46 46 45 順位 364 331 361 329 261 217 180 139 235 202 328 307 偏差値 50.8 50.9 51.0 51.1 54.1 54.2 56.4 57.7 54.9 54.9 52.2 52.0 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 64 兗予 実績 地方統一 重視 3/5 3/5 2/3 154 184 199(46歳) 自然死 冷静 冷静 普通 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 道理 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 田楷が親愛する武将 なし 田楷が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 31歳 一般 北平 公孫瓚 99 - 3000 - - S2 190年 1月 反董卓連合 37歳 一般 北平 公孫瓚 99 儒林校尉 5000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 41歳 一般 薊 公孫瓚 99 偏将軍 9000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 死亡 - - - - - - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 北平 公孫瓚 99 破賊校尉 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 45歳 一般 薊 公孫瓚 99 平西将軍 13000 - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 死亡 - - - - - - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 34歳 一般 北平 公孫瓚 99 儒林校尉 4000 - - S13 191年 7月 序を制する者 38歳 一般 平原 公孫瓚 99 偏将軍 8000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 平原 - - - 0 - - 北方人にありがちな、騎馬Aだけが取り柄の人である。 しかし最初から騎射を持つ公孫瓚配下なのでそれで十分かも。 また、單經などとは違って政治もそれなりにあるので公孫瓚軍では使い勝手がある。 義理も野望も普通なので中盤以降は遼東太守といったところだ -- (名無しさん) 2012-02-12 01 23 43 中盤までには死んでそう -- (名無しさん) 2012-02-12 04 02 14 名前 コメント すべてのコメントを見る
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登録日:2021/05/09 Sun 17 45 00 更新日:2024/01/26 Fri 12 25 00NEW! 所要時間:約 10 分で読めます ▽タグ一覧 プロトタイプ劉備 三国志 三国演義 世界史 中国史 公孫瓚 劉虞 幽州 後漢 後漢皇族 皇族 群雄 袁紹 劉虞(りゅうぐ)とは、「三国志」の時代の人物。字は伯安。 当時の中国北方圏、幽州を治めた、後漢皇族の大物として有名。 なお「虞」は恐れや憂い、といった意味だが、地名や国名にも使われる文字で、古代の賢王・舜も虞の君主だったと伝わり、周代に封建された虞国は舜の末裔を報じたと言われる。 もちろん関係はないが、劉虞はその「仁徳」で知られていたため、妙に符合した名前となっている。 【生涯】◇前歴 ◇仁徳の貴公子 ◇幽州割拠 ◇公孫瓚との戦い ◇敗者の末路 【人物】 【三国演義の劉虞】 【各作品】 【生涯】 ◇前歴 生年は不明だが、漢帝国の皇族の血を引く人物。本貫は徐州・東海郡の郯(たん)県。 その先祖は、光武帝の長男(*1)で「東海恭王」劉彊に由来する。 祖父・劉嘉は光禄勲、父・劉舒は丹陽太守を務めるなど、ただの皇族ではなく実力ある皇族の家系だった。 当人も早くから出仕。 最初は故郷の郯県で下級官吏としてスタート。謹厳実直な職務ぶりが評価されて、県の上位機構である東海郡の官吏として抜擢される。 そこでもさらに功績を挙げたため、洛陽の朝廷へと推挙され、博平の県令、幽州の刺史、甘陵の相、などを歴任する。 ◇仁徳の貴公子 この幽州刺史時代、現地は後漢朝の統治機構の衰退によって、異民族が流入して四方を荒らしまわり、地方豪族が住民を抱え込んで、大騒ぎになっていた。 着任した劉虞は、異民族に対して使者を送って宣撫と交渉に努めた。北狄勢力は新任刺史の恩徳に毒気を抜かれ、劉虞を経由して朝貢関係を結び直し、略奪を差し控えるようになったという。 「仁徳でもって異民族を鎮圧する」とはなかなか浮世離れした話だが、よほど評判になったようで、 病気を理由に退官して故郷に戻ると、人々は裁判所ではなく劉虞に裁定を頼むようになった。 184年の「黄巾の乱」でも、当時赴任していた甘陵にて、荒廃した人民を慰撫して、倹約に努めるなどして、治安回復に尽力。 一時は中央に招集されて尚書令・光禄勲・宗正と昇進するが、 187年に幽州で「張純の乱」が勃発すると、その反乱軍に北方異民族の一派・烏桓が加わっていたため、「異民族相手なら劉虞だ」ということで再び幽州に派遣される。 数年前の幽州時代に培われた劉虞の声望はいまだによく知られており、烏桓勢力の頭目・丘力居は戦闘を放棄してさっさと劉虞に帰順してしまう。 大勢力が抜けてしまった張純は形勢不利と見て鮮卑族の下へ逃亡するが、間もなく部下に暗殺され、反乱は鮮やかに平定。 一連の功績がすべて「劉虞の徳」によったことは、儒教政策の理想のようなものであったため、劉虞は太尉(軍務大臣で三公の一つ)にまで昇進、同時に「容丘侯」の爵位も与えられた。 ただ、この昇進を受けた時、劉虞本人は幽州に赴任したままであり、都には帰らなかった。 というより、この189年時点で都・洛陽は董卓によって制圧されており、劉虞は帰ろうにも帰れなかったのである。 ◇幽州割拠 張純討伐のため、軍を率いたまま幽州にとどまることになった劉虞は、なし崩し的に幽州の軍閥的存在となる。 董卓は擁立した献帝の名のもと、劉虞に「大司馬・襄賁侯」の地位を与えるが、 劉虞は袁紹・曹操・袁術らが結成した「反董卓連合」に加わり、董卓に対して対決姿勢を取る。 しかし連合内部ではこれといった動きは見せず、他の諸侯ともどもただいるだけだった。 一方、袁紹は「董卓が擁立する献帝劉協」のカウンターパートとして、劉虞を皇帝に擁立して戦おうとしたが、劉虞は断固として拒絶している。 この際は袁術も劉虞側に回って反対しており、さすがに袁紹もあきらめざるを得なかった。 また劉虞の息子の劉和が、このころ董卓のもとを逃れている。 これは献帝の密命によるもので、劉和を父・劉虞のもとに戻らせて軍を動員させ、献帝を長安から救出して洛陽に帰還させよ、という指示を受けてのことだった。 ただ、劉和は途中で袁術の本陣に駆け込んだのだが、袁術は「我が陣地のほうが前線には近い。お父上への援軍要請は手紙で済ませて、軍が到着すればここから出ればよろしいでしょう」と説得したため、劉和は父のもとに駆け込めなかった。 ただ袁術はちゃんと手紙は送っており、劉虞も献帝の期待通りに援軍を出している。 しかし劉和はしばらくして(後述する公孫瓚の事情を察してか)袁術のもとを抜け出して北上、父のもとに帰投しようとした。 が、途中またも袁紹に抑留される。その後の記録はしばらく消えるが、おそらくそのまま袁紹のもとで食客として過ごし、父と連絡を取ったと思われる。 結局、連合軍は董卓が正面決戦を放棄して、洛陽も破却して長安に立ち去ったことから、あっけなく空中分裂。 劉虞も、董卓が擁立したままの献帝に忠誠の証の使者を送るなど、袁紹を無視して行動していた。 ◇公孫瓚との戦い ところで幽州には劉虞ともう一人、公孫瓚が割拠していた。 彼は対異民族戦のエキスパートで、勇猛果敢な指揮ぶりから有名であったが、異民族に対して武力討伐を是とする公孫瓚と、異民族に対して融和路線を取る劉虞とでは価値観が真っ向からぶつかり合い、極めて不仲でった。 しかもこの時期、 劉虞が異民族に送る予定の物資を公孫瓚が横取りしたこと 劉虞の領域から公孫軍による物資略奪が相次いだこと 劉虞が袁術・劉和のもとに派遣した援軍を、公孫瓚が奪おうとしたことしかも公孫瓚は劉和の暗殺計画を練っていたこと(劉和が袁術のもとを抜け出したのもおそらくこれが原因) などから、温厚な劉虞も徐々に怒りと敵意を固めていった。 しかし劉虞は、部下の魏攸に諌められて一度目の出兵を思いとどまった。 結局、193年に魏攸が死ぬと改めて戦闘を決意、異民族まで糾合して、総勢十万以上という全盛期の袁紹や馬超にも匹敵する大軍を組織するが、 この時期の公孫瓚は袁紹相手に二回勝利を収め、しかもその戦いから一年も経過しており、疲弊も癒えて万全な情勢にあった。 その前年ならば袁紹との二連戦で、勝利した公孫軍も疲弊していたはずであり、劉虞の出兵は明らかに時機を逸していた。魏攸の諌言を採用したのが過ちである。まあ採用したのは劉虞だから責任はやはり彼にあるが そのうえ、開戦直前になって幹部が開戦に反対したり、劉虞がその幹部を士気阻喪の咎で処断したりしているが、幹部の弱音は兵の戦意を弱め、劉虞の処刑は指揮系統の混乱を招く。 しかも劉虞の部下にはなぜか、公孫瓚の親族でパイプも太かった公孫紀という人物がおり、劉虞の作戦は彼を通して筒抜けになっていた。 とどめに、公孫瓚は劉虞対策として、非武装の民衆を前面に押し立てて布陣。 なまじ優しい劉虞は「殺すべき公孫瓚ただ一人である、無用な殺傷はするな」と布告したが、そんな指示を出されては勝てる戦も勝てない(*2)。 ここまで負ける情勢をそろえた軍というのも珍しい。 対して公孫瓚は、こと戦闘に関しては一流の男である。機を読むにも敏であった。 数だけは多くとも戦意に乏しい劉虞軍に対して、公孫軍は容赦ない猛攻を掛けてこれを大破。劉虞は逃走するも、あっけなく捕えられた。 ◇敗者の末路 公孫瓚は捕えた劉虞をなぶりものにした。 以前からの対立のみならず、公孫瓚は劉虞に象徴される「儒教的なエリート」を心の底から憎んでいたのである。 彼は「徳のある」劉虞を引き回しにしたうえで、袁紹の皇帝擁立計画を踏まえてか「皇帝になれるほどの『徳』があるというなら、天も感応するはずだな! 雨ぐらいは降らせてくれるだろう!」と、 儒教の徳治思想をあざけるかのような難題を突き付ける。 そのうえで数日、真夏の炎天下に晒したのち、雨が降らなかったことで「徳があると偽り人を欺こうとしたが、天に拒絶された、国賊」として、劉虞を斬首にしてしまった。 そして、劉虞の名声を傷つける事件はもう一つあった。 劉虞を処刑したのち、公孫軍は彼の屋敷に押し入り、捜索(という名の略奪)を開始した。 すると妻や妾たちが奥の間から引きずり出されたが、彼女たちはきらびやかで上質な絹の衣装を身にまとっていた。 普段の劉虞は、たとえ衣類や冠が破れても新調ではなく裁縫で保全するほどに「質素倹約」を掲げていたが、 実際にはそれが表向きのポーズだったということが衆目に晒されたのである。 なまじ「仁徳のある劉虞」だったのが災いして、人々は劉虞の本性に疑念を抱くことになった。 ただし、北方圏における劉虞の名声は、死後に毀損されてもやはり依然として大きなものであった。 特に劉虞の処刑は、ただ殺すだけではなく、徹底的に名声を地に落とそうという公孫瓚の憎悪が先立つものであったため、 劉虞の残党や恩顧を受けた者たちは、公孫瓚への憎悪と敵意、そして「公孫瓚には降伏しても許されない」という覚悟を決めさせることになった。 そして、そうした劉虞派の武将や民衆や異民族は、公孫瓚に対抗するもう一人の巨頭、袁紹のもとへと参集するようになる。劉虞の息子・劉和が、袁紹のもとに庇護されていたことも、その流れに拍車をかける。 公孫瓚は劉虞撃破の前年まで、袁紹に対して一敗二勝という優位な立ちまわりを行っていたが、この時期を境に袁紹戦が徐々に悪化。 最終的に、公孫瓚は戦意もなくしてみすぼらしい末路を遂げることになる。 【人物】 仁徳に満ち溢れた聖人君子として知られ、儒教の理想を体現したようなエピソードがとにかく多い。 特に恩徳エピソードは異民族に対して発揮されており、当時後漢の衰退に乗じて攻め込んできた北方異民族には絶大な人気があった。 その人望たるや、反乱軍に呼応して攻め込んだ異民族が、劉虞が相手と知るとあっさり反乱軍を裏切ったほど。 もっとも、侵略や略奪までしておいて「恩徳」でなびく異民族というのも変な話なので、実際には恩徳だけでなく、交渉全般がうまかったということだろう。 異民族に対して劉虞の側から貢物を進呈していた記録もあり(それを公孫瓚が強奪するのだが)、表も裏も含めた交渉全般に長けていた模様。 異民族への「恩徳」も全くの事実無根とは思えないため、例えば夷狄の言語を理解するとか、彼らにも実入りのある話を持っていくとか、いろいろできたのだろう。 ただ、公孫瓚との戦いでは、彼の限界も露呈した。 軍事センスは無かったようで、公孫瓚が消耗した絶好の機会を逸して、逆に全盛期の公孫瓚に挑みかかり、配下の把握もできずに情報を流され(というか公孫紀のことを少しでも考えなかったのだろうか)、命を奪う戦争時に「余計な殺しは避けるように」などと非現実的な指示を下し、結果大敗した。 しかも異民族を糾合して大軍を築き上げたのはいいが、この時なぜか袁紹が動いていない。 当時袁紹のもとには息子の劉和がいたままだったと思われ(193年には袁紹のもとに投じている)、199年には劉和は袁紹の客将として、公孫瓚討伐の旗頭となっていた。 このことから少なくとも劉和は袁紹と良好な関係を築いていたはずなのだが、にもかかわらず劉虞と公孫瓚の戦いでは、袁紹が動いていない。 結局、大局的な目で見ると「劉虞がむざむざ破滅してくれたので、袁紹が得をした」形になっている。 幽州から進出するつもりや、現状を打破して天下に挑むなどの気概もなかったようで、乱世の群雄というより、なし崩しのままその地位についてしまった平凡な地方官僚だったのかもしれない。 本当に群雄的な人物であったなら、袁紹の皇帝擁立計画に乗って、皇帝を名乗り天下に挑むという選択肢も当然ありえた。これが劉焉なら乗っただろう(実際劉焉は馬騰と組んで長安に攻め込んでいる)。 そうしていれば、結果は別として、もう少し粘り、北方圏にその名をとどろかせることはできたかもしれない。 劉虞になにより必要だったのは、劉備のような「しぶとい意志」だったのだろう。 【三国演義の劉虞】 「いちおう」登場。 劉備が「黄巾の乱」の手柄で県令になりながらも、督郵を半殺しにして出奔したため、しばらくは代州牧・劉恢にかくまってもらっていたところ、北方で張純の反乱がおきる。 そこで劉虞が鎮圧に派遣されると、折よしとみた劉恢が劉虞の援軍として劉備ら三兄弟を派遣。 劉虞の兵団に加えて劉備ら三兄弟の勇猛が揃えば反乱軍は敵ではなく、見事に鎮圧に成功する。 その後の劉虞の戦功上奏で、劉備の督郵半殺しの件も帳消しとなり、次いで公孫瓚の上奏も加わって、劉備は晴れて平原県の県令として復活し、のちの「反董卓連合」まで実力を蓄えるようになる。 もっとも、劉表などと違って登場するエピソードは「こんなこともありました」的な駆け足で終わり、劉虞の人となりはまったく描かれない。 また、劉備は劉虞の赴任地である幽州の出身だが、黄巾の乱で旗揚げした際の幽州刺史はなぜか劉焉になっており、貴重な面会シーンを逸してしまっている。 さらに、異民族への恩徳を施した話や、その後の公孫瓚との対立から滅亡までの話は完全カット。 そんなこんなで、三国演義の劉虞は非常に地味。 作品によっては完全に登場しないものも多い。 一説には、劉虞の「恩徳にあふれる儒教の理想的な君子像」「仁徳はあるが戦には弱い」というキャラクター性が、三国演義版劉備のモデルの一つとも言われる。 ならばその劉虞を劉備と邂逅させて「劉備は劉虞の薫陶を受けた」としてもよさそうなものだが、そこで「劉備の盟友だった公孫瓚が劉虞を滅ぼした」ということがネックになったと考えられる。 つまり「劉虞が滅ぼされるのを座視していたなら劉備は問題だ」となるし、「劉虞を滅ぼした公孫瓚と劉備が仲良くする理由が説明できない」「劉虞を嫌って滅ぼした公孫瓚がよく似た劉備を引き立てる理由が説明できない」となった結果、 「いっそ触れないほうがいい」と判断されたのかもしれない。 【各作品】 コーエー三国志 数少ない、まともに登場する作品。それでも「6」までは参戦していなかった。 意外と能力値はよく、統率力・武力は最低実用レベル、知力や政治力は60~70台と悪くない。 そして魅力値は数々の恩徳エピソードから常に90台をキープしており、少なくとも劉禅などとは比較にならない数値がある。 ただし配下の数が非常に少なく、その質も悪いため、史実通り公孫瓚を何とかしなければ未来はない。 三国志9では弱小だから慰撫した異民族の影響か、飛射という強力な特技を持たされている。 劉虞の能力では威力はさほどでもないが、戦争での使い出があるだけマシと言えるか。 三国志大戦 3や新版で漢勢力として登場。特技に魅力を持っているのはやはりと言ったところ。 だが持ってくる計略が全般的に決定打に欠けがちだったり史実通りの浪漫だったりとどうにも戦闘には向いていない。 まともに登場するのはこれぐらいで、三國無双や恋姫無双、蒼天航路などでは影も形もない。 悪意ではなく恩徳に満ちた追記・修正・コメントをお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 劉虞が帝に送った使者が、後に結果的に袁紹の息子達の逃げ場を奪ってしまったのが皮肉というか何というか… -- 名無しさん (2021-05-09 18 32 01) 奥さんの着物が豪華だったエピは公孫瓚の情報操作とは正直ちょっと考えれば誰もが疑うレベル。まあ嘘と言う証拠もないが… -- 名無しさん (2021-05-09 18 42 49) ↑まあ、本人は倹約家だけど奥さんは浪費家とか、もしくはその逆とかいう夫婦は結構いるから -- 名無しさん (2021-05-10 00 52 13) 歩隲って実例があるけど、劉虞は豪奢な生活させるタイプではなさそうな -- 名無しさん (2021-05-10 03 40 51) 今まで公孫サン、劉備と色々いい関係だったというので、嫌いじゃなかったんだけど、劉虞への仕打ちの話を聞いて、一気に嫌いになったわ。 -- 名無しさん (2021-05-10 11 18 17) 公孫瓚は呂布2号と言っていいくらいには問題人物。 -- 名無しさん (2021-05-10 11 37 46) ただ補足しとけば、群雄としては公孫瓚くらいの立ち回りは当然。劉虞をありがたがる人々に対して情報操作紛いの事をしてでも自身の正当性を誇示するのは普通だろう。劉虞がもし異民族に「物をあげて帰ってもらっていた」なら、「劉虞みたいなぬるいやり方は一時しのぎだ!」と宣伝する必要があるとも言える。 -- 名無しさん (2021-05-10 11 47 47) 公孫瓚は袁術を野心多き危険人物だと見抜いていたので、兵を出して献帝を救出してもまんまと利用されるだけだから止めておけと劉虞を諌めたが聞き入れられなかった。そのせいで元々不仲だった両者は完全に決裂してしまったとか。 -- 名無しさん (2021-05-10 13 30 05) ↑4 于吉のようなカルトはこうやって徹底して潰す必要があったんだろう。劉虞は確かに立派な人物ではあったが、そのやり方が公孫瓚にとって大いに間違っていると見えたならそこまでしないといけなくなった。劉和が逃げ延びてしまっていたのは致命傷だったな -- 名無しさん (2021-05-10 17 51 24) ↑6 豪奢というか、自分は倹約するけどそれは別として家族には余裕のある暮らしをさせたいというのは人情として理解できる -- 名無しさん (2021-05-10 18 56 28) 三國志を公孫讃で始めたら大抵のプレイヤーは真っ先に潰しに行く、文官に乏しい勢力だから劉虞の存在は非常にありがたい -- 名無しさん (2021-05-10 23 35 47) 公孫瓚より先に作られた項目 -- 名無しさん (2021-05-10 23 49 57) ↑3 家族一同清貧というのは表からは立派に見えても苦しいからな・・・立派な服を着せただけで印象が変わる程度に役人の家族として人並みだったんだろうな -- 名無しさん (2021-05-11 00 16 07) 劉虞の適性は大鴻臚とか全権大使とかだったのだろうな。 -- 名無しさん (2021-05-11 08 37 19) 三国志9では別の意味で厄介なんだよね。東に烏丸がいるから、彼らと友好を保ってない状態でホイホイ取りに行くと、奴らが山のように攻め寄せてくることになる。劉虞を倒したいなら、まずは烏丸との友好を高めておく。これ大事。 -- 名無しさん (2021-05-11 17 55 44) ↑5袁紹に近い劉虞と劉備に近い公孫瓚だから、相性そのものはそこまで悪くないのがね…11とかだと嫌悪設定で捕縛=死だけど -- 名無しさん (2021-05-11 21 56 17) 劉虞は公孫瓚を監督する立場にあったと言われてたから裏を返せば公孫瓚は上司を滅ぼしたって事になるんだろうけど戦後に公孫瓚が人望を無くしたのは彼が謀叛人扱いされたわけではなさそう -- 名無しさん (2022-11-06 11 50 55) 生まれた時代が悪かったな。平和な時代なら有能かつ清廉潔白な官吏として天寿を全うできただろうに -- 名無しさん (2023-01-27 05 05 24) 名前 コメント
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カンセイ 列伝 公孫瓚の幕僚。 【演義】 記述なし。 【正史】 公孫瓚に信頼され可愛がられたが、媚びへつらうばかりで長期的な展望を持たなかった。袁紹に易京を包囲された時、出撃して袁紹の背後を襲おうとする公孫瓚を止めた。公孫瓚が死ぬと、「君子は他人を危難に陥れた場合、必ず運命を共にすると聞く。どうして生き残れようか」と言い、袁紹軍に突撃して死んだ。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 36 52 72 63 42 265 88 160 順位 538 421 186 313 553 429 497 440 偏差値 40.4 48.7 56.5 52.9 40.8 46.6 44.5 47.6 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C C B C C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 38 26 36 29 35 25 48 29 36 21 36 24 順位 433 541 434 539 442 543 400 526 442 547 436 542 偏差値 46.5 39.9 46.4 40.0 46.8 39.7 49.1 41.9 46.8 39.7 47.2 40.2 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 65 冀州 実績 州統一 重視 4/5 3/5 2/3 158 184 199(42歳) 不自然死 小心 小心 慇懃 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 親愛・嫌悪 状態 武将名 関靖が親愛する武将 なし 関靖が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 27歳 一般 北平 公孫瓚 100 - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 33歳 一般 北平 公孫瓚 100 左僕射 3000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 37歳 一般 北平 公孫瓚 100 武庫令 8000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 死亡 - - - - - - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 北平 公孫瓚 100 左僕射 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 41歳 一般 北平 公孫瓚 100 長史 12000 - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 死亡 - - - - - - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 30歳 一般 北平 公孫瓚 100 左僕射 1000 - - S13 191年 7月 序を制する者 34歳 一般 北平 公孫瓚 100 主簿 5000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 北平 - - - 0 - - 史実では忠臣≠有能であるという典型例。こんな奴でも公孫瓚軍では軍師なのが悲しいところ。 貴重な文官ではあるのだが、しかし能力は二線級以下、特技無し、適性もほぼ全滅と目も当てられない。参謀としての信用度もゼロなので、 さっさと田予なり趙雲なりに変えるか、袁紹軍からとっ捕まえてきた方がいいだろう。 義理は高めなので序盤は別働隊の副将、中盤以降は運搬をつけてやるのが吉か。 -- (名無しさん) 2011-02-22 19 59 01 文官の割に政治が低く開発力は微妙。63なので育成一回では合併要員になれない もっとも開発し終わった後方都市に置く分にはあまり問題ないので、政治育成は他に回し生産系の特技をつけてそれに専念させるのも手 政治が高い文官にはたいてい他の仕事があるのだし -- (名無しさん) 2012-12-20 22 01 57 公孫讃との相互親愛がないのは意外だった -- (名無し) 2013-01-05 13 38 32 仮に最期の突撃が無く、さっさと袁紹に降伏でもしていたら悲惨な能力値&低義理になっていたと思われる ある意味(演義補正で)晩節を汚した(事になってる)糜芳と対照的と言えるか? -- (名無しさん) 2013-01-11 14 01 35 性格が小心なのに突撃して死ぬという壮絶な最期 -- (名無しさん) 2017-01-13 06 41 27 名前 コメント すべてのコメントを見る
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スウタン 列伝 公孫瓚の武将。 【演義】 記述なし。 【正史】 公孫瓚から漁陽の太守に任命される。元劉虞配下の鮮于輔(せんうほ)らが推す閻柔と対立。閻柔が率いる烏丸と鮮卑の連合軍に敗れ、斬られた。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 61 64 34 37 39 235 125 159 順位 366 331 575 522 573 534 355 449 偏差値 51.6 53.6 37.9 41.2 39.2 42.1 52.8 47.4 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C C A C C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 47 45 45 49 43 43 66 55 45 36 45 41 順位 369 398 383 407 390 398 188 218 371 395 358 376 偏差値 50.4 48.6 50.5 48.5 51.0 48.7 56.0 54.7 51.4 48.9 51.7 49.8 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 65 幽州 名声 州統一 臨機応変 3/5 3/5 2/3 148 184 195(48歳) 不自然死 剛胆 剛胆 普通 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 故事 ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 鄒丹が親愛する武将 なし 鄒丹が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 37歳 一般 北平 公孫瓚 97 - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 43歳 一般 北平 公孫瓚 98 - 1000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 47歳 一般 北平 公孫瓚 98 昭信校尉 4000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 死亡 - - - - - - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 北平 公孫瓚 98 - 0 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 死亡 - - - - - - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 死亡 - - - - - - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 40歳 一般 北平 公孫瓚 97 - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 44歳 一般 南皮 公孫瓚 98 破賊校尉 3000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 北平 - - - 0 - - 情けない顔の通りの微妙な能力値だが義理は普通にあるので騎射隊として使ってやれない事もない 武力低ぐらいは育成してやりたいが不自然死とは言え寿命は短いので悩みどころ -- (名無しさん) 2012-05-16 22 57 40 名前 コメント すべてのコメントを見る
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ゲンコウ 列伝 公孫瓚の武将。 【演義】 界橋の戦いで先手の大将となる。袁紹軍の陣に突撃するが、前衛の麹義に敗れ、逃走するところを斬られた。 【正史】 公孫瓚から冀州刺史に任命された。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 68 71 40 51 52 282 139 179 順位 263 202 530 416 461 372 221 325 偏差値 54.8 56.4 40.8 47.5 46.1 49.2 55.9 51.6 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C B C A B C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 52 50 57 63 47 48 73 61 57 46 50 45 順位 309 331 190 226 312 318 130 139 157 202 236 307 偏差値 52.5 50.9 55.9 54.5 53.0 51.2 58.7 57.7 57.5 54.9 54.2 52.0 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 64 幽州 名声 州統一 臨機応変 3/5 2/5 2/3 163 184 192(30歳) 自然死 猪突 猪突 普通 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 故事 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 厳綱が親愛する武将 なし 厳綱が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 22歳 一般 北平 公孫瓚 99 - 3000 - - S2 190年 1月 反董卓連合 28歳 一般 北平 公孫瓚 99 建議校尉 4000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 - 死亡 - - - - - - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 死亡 - - - - - - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 北平 公孫瓚 99 武衛校尉 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 死亡 - - - - - - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 死亡 - - - - - - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 25歳 一般 北平 公孫瓚 99 建議校尉 4000 - - S13 191年 7月 序を制する者 29歳 一般 南皮 公孫瓚 99 裨将軍 8000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 南皮 - - - 0 - - 列伝見る限り死因は不自然死では? 設定ミス? -- (名無しさん) 2011-04-29 16 21 14 自然死で寿命が短すぎる武将。英雄終結で多少出番があるだろうが、戦闘に出せるほど強くない。後方送りにして内政をやらせておこう。 -- (名無しさん) 2016-03-31 15 37 32 名前 コメント すべてのコメントを見る
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情けない顔の通りの微妙な能力値だが義理は普通にあるので騎射隊として使ってやれない事もない 武力低ぐらいは育成してやりたいが不自然死とは言え寿命は短いので悩みどころ -- (名無しさん) 2012-05-16 22 57 40 公孫瓚軍のなかでもかなーり弱い。 公孫瓚や公孫瓚一族、田予を使って周りの勢力を倒しているころにはより良い武将が既に集まっているだろう 寿命もびみょーなので後方に送って内政させるのが良いか。 -- (名無しさん) 2023-06-09 22 48 53
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劉虞(りゅうぐ) 字は伯安(はくあん) (?-193) 光武帝(後漢最初の皇帝)の子、東海恭王の子孫。つまり、皇族の子孫。 支配地では善政を敷いていた為、人々からの人望は厚い。また異民族の間でも信望が厚く、人望により反乱を鎮圧した。 しかし、公孫瓚との対立が激化。戦争を得意としなかった為に、公孫瓚に捕らえられ処刑された。 公孫瓚が袁紹に滅ぼされた要因の一つが、この劉虞の処刑にあったという。
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■iM@s白馬将軍 - 『三國志Ⅶ』 ◆用語、その他イナゴっち ネタの古さに定評 ハマのナイスガイ 祠 やよいゾーン 粥-米=白湯 ■iM@s白馬将軍 - 『三國志Ⅶ』 愉快な君主公孫瓚と苦労性の趙雲がやよいと千早に出会ったとき、中華の歴史が動き始めた。 ネタの古さに定評のあるハマガイPがおくるおっさんホイホイなコメディ三国志。 【アイドルマスター】im@s白馬将軍 第一話 【ニコニコ動画】iM@s白馬将軍 架空戦記の三国物語中、最も古い三国志Ⅶを扱っている唯一の動画でもある。ニコニコ歴史戦略ゲー全体まで含めてもわずか三作で、うち一作は削除されている。 ◆用語、その他 イナゴっち 公孫瓚の呼び方。餌にお米をあげると進化するらしい。 作中でイナゴ戦術とってないのに、哀れ公孫瓚。 ネタの古さに定評 「クイズ100人に聞きました」「ふしぎの海のナディア」「THE MOMOTAROH」といった、懐かしいネタが満載。 ハマのナイスガイ 第一話で、趙雲が自分を紹介する際にこう名乗った。 黒歴史となっており、主君の公孫瓚から何かにつけてからかわれ続けている。 ハマガイPの由来でもある。 祠 陳留では、シュークリーム好きの神様が祀られていた。 しかし、お供えされたものは唐辛子で「はぅあぅ」するはめに。 やよいゾーン おっさん受けする高いカリスマで抜群の人材スカウト能力を持つ、やよいについた別称。 彼女にお願いされて、降らない捕縛武将はいないと言われる。 粥-米=白湯 やよいの主食。全視聴者が泣いた。 名前 コメント
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キクギ 列伝 袁紹の武将。 【演義】 界橋の戦いで、公孫瓚の白馬義従を防ぐ前衛部隊を指揮。厳綱を斬って公孫瓚軍を瓦解させるが、公孫瓚の配下になっていた趙雲に討たれた。 【正史】 長く涼州にいたため羌族の戦法に習熟しており、配下の兵はみな勇敢で精鋭だった。公孫瓚の騎兵に対し、最初は盾に身を隠し、接近したら強力な弩で討ち取るという戦法で勝利した。袁紹が公孫瓚の奇襲で窮地に陥った時も救援するなど活躍する。後に功績を鼻にかけて勝手な行動を取るようになり、袁紹に殺された。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 82 78 51 18 37 266 160 211 順位 53 97 448 629 584 423 67 136 偏差値 61.1 59.3 46.2 32.6 38.2 46.8 60.6 58.4 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 A C S A C C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 74 77 55 66 74 82 81 74 55 49 55 55 順位 67 51 214 185 18 20 71 46 181 154 152 124 偏差値 61.9 63.4 55.0 55.7 67.0 68.3 61.8 64.1 56.4 56.8 56.8 57.7 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 弓将 自分より武力の低い敵部隊への弩兵戦法成功時クリティカル マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 99 幽州 実績 州統一 臨機応変 2/5 4/5 1/3 146 184 191(46歳) 不自然死 猪突 猪突 豪放 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 麹義が親愛する武将 なし 麹義が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 39歳 未発見 北平 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 45歳 一般 南皮 袁紹 96 武衛校尉 2000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 - 死亡 - - - - - - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 死亡 - - - - - - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 南皮 袁紹 96 武衛校尉 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 死亡 - - - - - - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 死亡 - - - - - - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 42歳 未発見 北平 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 46歳 一般 鄴 袁紹 96 - 4000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 平原 - - - 0 - - 袁紹軍唯一の弩兵Sかつ弓将持ち。 武力は決して高い訳では無いが、初盤の有象無象な群雄相手なら十分特技が生きる。 不自然死なので没年よりは生きるがそれでもあまり長くはないのが惜しい。 -- (名無しさん) 2010-05-31 21 15 51 マスクデータの出身地幽州は涼州の誤記ではないですか? -- (名無しさん) 2010-06-01 02 09 01 ↑調べてみたけど出身・幽州だった。 -- (名無しさん) 2010-06-01 14 13 36 こいつがいなかったら界橋で公孫瓚が勝ち、袁紹は滅び劉備は一生公孫瓚の下で暮らしたかもしれん 寿命を気にしなくて済むなら、武力を育てて疑似弓神にしたい。 -- (名無しさん) 2012-05-04 14 35 31 不自然死とはいえ登場から7年で寿命が来るのは痛すぎる 官渡あたりのシナリオでも登場してくれれば二枚看板&張郃と同格の活躍が見込めただろうに -- (名無しさん) 2012-06-30 05 11 39 死亡年が191年なのをあれ?と思ってwikipediaを見たら、演義準拠なんだね。 -- (名無しさん) 2012-06-30 06 01 21 寿命もだがS2開始時点でもう劣化が始まっているので本領発揮は架空シナリオだろう 義理が低いのが気になるが英雄集結河北唯一の弩S弓将を生かさない手はない 贅沢だが顔良と組んで敵の士気ガタガタ何てことも一応出来る どうでもいいが演義でも一応公孫瓚の陣を破っているのに 武力どころか統率も公孫瓚以下なのは何故だ -- (名無しさん) 2013-10-09 16 46 54 S1では推挙で配下に加わることも多い。 一騎打ちに勝つ必要はあるが、不安な忠誠面をカバーできるので狙っていきたい。 特に兵科適正が馬に偏り過ぎている公孫サン勢力では貴重。 -- (名無しさん) 2015-01-06 17 00 09 名前 コメント すべてのコメントを見る
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袁紹軍唯一の弩兵Sかつ弓将持ち。 武力は決して高い訳では無いが、初盤の有象無象な群雄相手なら十分特技が生きる。 不自然死なので没年よりは生きるがそれでもあまり長くはないのが惜しい。 -- (名無しさん) 2010-05-31 21 15 51 マスクデータの出身地幽州は涼州の誤記ではないですか? -- (名無しさん) 2010-06-01 02 09 01 ↑調べてみたけど出身・幽州だった。 -- (名無しさん) 2010-06-01 14 13 36 こいつがいなかったら界橋で公孫瓚が勝ち、袁紹は滅び劉備は一生公孫瓚の下で暮らしたかもしれん 寿命を気にしなくて済むなら、武力を育てて疑似弓神にしたい。 -- (名無しさん) 2012-05-04 14 35 31 不自然死とはいえ登場から7年で寿命が来るのは痛すぎる 官渡あたりのシナリオでも登場してくれれば二枚看板&張郃と同格の活躍が見込めただろうに -- (名無しさん) 2012-06-30 05 11 39 死亡年が191年なのをあれ?と思ってwikipediaを見たら、演義準拠なんだね。 -- (名無しさん) 2012-06-30 06 01 21 寿命もだがS2開始時点でもう劣化が始まっているので本領発揮は架空シナリオだろう 義理が低いのが気になるが英雄集結河北唯一の弩S弓将を生かさない手はない 贅沢だが顔良と組んで敵の士気ガタガタ何てことも一応出来る どうでもいいが演義でも一応公孫瓚の陣を破っているのに 武力どころか統率も公孫瓚以下なのは何故だ -- (名無しさん) 2013-10-09 16 46 54 S1では推挙で配下に加わることも多い。 一騎打ちに勝つ必要はあるが、不安な忠誠面をカバーできるので狙っていきたい。 特に兵科適正が馬に偏り過ぎている公孫サン勢力では貴重。 -- (名無しさん) 2015-01-06 17 00 09